プロフィール

はじめまして、イラストレーターの橋本ナオキです。

大阪生まれ大阪育ち、今は横浜でイラストやデザインの活動をしています。

だらだらと生い立ち〜就職〜フリーランスになるまでのプロフィールを残しておきます。

器用貧乏だった幼少期

ちっちゃい時から僕はかなりの器用貧乏でした。勉強もかけっこもクラスの中で真ん中より上には入るけど1番になれるものは持っていない、そんな幼少期でした。小さい頃から絵を描くのは好きでしたがもちろん賞を受賞したりすることも美術部に入ることもなく、何でも無難にこなす橋本少年は暮らしていました。ただし身長だけはかなり小さく、背の順に並ぶと前から2~3番目ぐらい。今でこそ「関西人っぽくない」としょっちゅう言われる低血圧な性格ですが、幼少期はかなり活発でした。幼稚園の頃に海賊の劇にタコ役で出た時、一人だけ本意気の芝居をして爆笑されているビデオが実家にあるぐらいです。

何してたっけ・・な中学時代

中学はテニス部に所属してましたがあんまりエピソードを思い出せません。笑

ひとつ覚えてるのは一年生のとき理不尽に遭遇したことです。テニス部一年が筋トレをしていたとき数人がふざけて遊び始め、それを見た3年の先輩が激怒。「そこの遊んでる奴ら廊下100往復じゃ!!!」と言い(長い廊下を走る風習があった。外行けよ。)なぜか僕もそれに巻き込まれたのです。90往復目ぐらいで死にそうになった時に良識ある3年の先輩が「100往復数えたことにしていいよ」と言って止めてくれました。(できればもっと早くに止めていただけるとありがたかったです。。と思った)3年生のときテニス部員同士がラケットで殴り合いをして血まみれになったりトイレの天井裏に隠れてタバコを吸うヤツが転校してきたりなんか自分のことより周りのやんちゃな出来事を覚えています。そして勉強面では少人数の個人塾に通っていました。忘れ物をしたり小テストでミスると手や顔にハンコを押されるというかなり独特な教え方だったんですが、僕の基礎学力はあの塾で固まり、おかげで進学校と呼ばれる部類の高校に進むことができました。

隠れ熱血テニス部員だった高校時代

部活は中学に引き続き硬式テニス部に入部。中学に比べると明らかに周りのレベルが高くて僕はレギュラー枠には入れませんでした。(厳密に言うとレギュラーっていう括りはなかったんですが団体戦に選ばれるメンバーは固定化されていた)2年生の夏ぐらいにテニスにハマり(今までハマってなかったんかい!)毎朝7時には学校に行って一人でサーブを打ちまくっていた記憶があります。その甲斐あって夏休みの試合で初めてレギュラー格の試合にダブルスで出させてもらうことができたのですが、その試合が僕のテニス人生で最もボールを打ち返せなかった試合でした。相手が強かったわけでもなく、特別体調が悪かったわけでもなく、未だに原因は分からないのですがとにかく納得いくプレーは一切できないまま大切な試合は終わりを告げました。試合後、これまた人生でほぼ唯一と言ってもいいぐらいボロボロ泣きました。どうしても涙が抑えられず嗚咽を漏らすほど泣いたのはあの時しかありません。たぶん、何でも無難にこなせてきた自分にとって、必死に練習しても成果が出ないという悔しさを感じるのが初めてだったんだと思います。

合格点まであと1点足りなかった大学受験

大学受験を控えた僕は偏差値60ぐらいの公立大学をぼんやりと志望校にしていました。ただ浪人をしたくなかった僕は「偏差値70ぐらいの国立大学を目指すつもりで勉強して、余裕で偏差値60の公立大学に入学しよう」と目論見ます。結果的に言うとこの作戦は大成功でもあり大失敗でもあります。河合塾マナビスという映像授業の予備校に通い、3年生の頃は狂ったように勉強しました。テストのときに頭の中で音楽が流れるのが嫌で半年ぐらい音楽を聞かずテレビもろくに見ず1日10時間以上は勉強してた気がします。その結果、なんと僕は本当に国立大学に手が届くぐらいまで学力が上がり、結局公立大学は受験することはありませんでした。その代わり本気で目指すようになった国立大学には、発表された合格最低点に1点以内の超僅差で落ちてしまいました。そのときは多少ショックだったんですが、中学のテニスの試合と違って出し切った感があったのできっぱりと諦めて私立大学に進学することにしました。ただ滑り止めで受けた私立大学2校を適当に選びすぎたため、両方けっこうな僻地にあるキャンパスからを選択することを余儀なくされたのです。山の中か湖のそば(当時のイメージ)という選択を迫られ僕は特に深い理由もなく山の中(当時のイメージ)に進学することを決めました。

大学時代

山の中(当時のイメージ)の大学は、電車で向かう最中「この電車でほんとに合ってんの?」と思うような場所を通り到着しました。もちろん本当に山の中なわけはなく、田舎と言われる部類ではありましたが僕はかなりその環境が好きでした。大学時代はウェイウェイ大学生でもなくバリバリ勉強するわけでもなくバイト三昧というわけでもなく満遍なくつまみ食いしてたような気がします。一回生はまず、死ぬほど飲まされるダイビングのサークルに流れで入ってしまい、ノリと性格が一切合わない人たち(今でいうパリピ)と一週間ほどダイビング合宿に行ったトラウマからスタートします。ダイビングの免許はおかげさまで持ってますし今ではいい思い出ですが、当時は合宿中1500回ぐらい本気で脱出する方法を考えてました。二回生からは人生初の一人暮らしをスタートし、スマブラと桃鉄ばっかりやってました。桃鉄は一人でひそかに99年プレイするぐらい好きなので日本中の地名と特産品が完全にリンクしています。一回生の頃は大阪のレストランでバイトしていましたが、このときにたまに現場に来ていたマネージャーと呼ばれる人が人生で会った人間の中でトップクラスに嫌いで、飲食業界にだけは絶対就職しないと強く誓いました。三回生では学内有数の有力ゼミに入れてもらい、かなり勉強しました。このときにIllustrator, Photoshop, Premiere Pro, After EffectsといったAdobeソフトを触ってちょっとしたものを作ったことは後々いい経験だったと思います。ただこの時期も映画を撮ろうと言ってなし崩しになったり旅行サークルを作ると言って宣伝だけで終わったり適当人間な部分が炸裂します。ただ今思うと大学って最高の環境でしたね。友達が周りにいっぱいいるというのもそうですが大学図書館で本読めるってとんでもないことです。僕が本を読みまくる人間になったのはあとで出てくる会社辞めたい期なのでその良さに気づきませんでした。しかもゼミ生だけ良い設備がそろいまくった部屋を使えたりと、ああいう大学生ならではの特典みたいなのをガッツリ利用しておくべきでした。僕は基本的に流されて流されて生きてきてますが、大学でゼミに入れてもらったのは本当にいい経験で、DTPや動画編集のさわりの部分を知れたことはのちのち役に立っています。(というかIllustratorやPhotoshopは本業になってるので)

人生でもっとも愚かだった就職活動

先日の記事で書いた僕のバカな就職活動の幕開けです。

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僕の就職活動を一言で言い表すなら「知ってる会社いっぱい受けて通ったらはたらく!」これに尽きます。もちろん第一志望は在阪テレビ局と決めていましたが(アナウンス試験だけなぜか書類審査を突破したぐらいで)あっさり全滅。そこからが悲劇の始まりです。とにかく説明会にいっぱい行って話を聞きまくり(よほどヤバそうでなければ)とりあえず入社試験を受けるという始末でした。今思えば、自分が何をやりたいのか定まっていないどころかやりたいことを探すという発想すらなく「内定を取らないと」という謎の義務感のみで就活をしていました。やりたいことを取るか、就職して安定を取るかという二者択一なんて全くありません。そう考えると恐ろしいです。そしてある日、割と行きやすい場所で図書カードが配布される説明会情報を聞きつけたので行ってみることにしました。そこで前職の会社と出会い、トントン拍子に試験を突破し内定をもらいました。

無能さを突きつけられたはじめての就職

就職が決まり僕は東京へ引っ越しました。今思えば、働く為に友達や家族親類がほとんどいない東京に行く意味が全く分かりません。内定をくれた会社が東京勤務と言ったから、東京に行った。ただそれだけです。ぼくはこのとき社畜としての人生の第一歩を踏み出していました。採用は「システムエンジニア」だったんですがプログラミングどころかITの知識が希薄。新人研修ではJAVAというプログラミング言語を勉強しましたが当然ズブの素人が講義を受けただけでは実務レベルに達することはありません。同期と優しい先生に囲まれた3ヶ月で完全にゆるんでしまいました。そんなゆるい3ヶ月間の新人研修を終え配属が決まったのは、社内でも有数のエリートが集まった部署でした。技術力も高くどんどん新しいことにチャレンジしていく部署です。結論から言うと、僕はその部署で「自分は使えないカス野郎なんだ」という意識が強くなって完全に自信喪失してしまいました。そして1年で僕はそのエリート集団からは異動になってしまいます。

異動してやっとSEに。そしてフリーランスへ。

僕は2年目から技術系の部署に異動になり、プロジェクトをいくつか経験しました。Objective-C, Swift, PHPなど言語もいくつか覚えようやくシステムエンジニアレベル1になれたと思った矢先、ある大きなプロジェクトに関わったのをきっかけに残業が爆発的に増えました。プロジェクトメンバーはいい人ばかりで今でも付き合いがある人がいますし、当時のリーダーにはかなり感謝しています。しかし22時~23時の退社は当たり前、土日もどちらかは出社するという期間が続いた時、流されまくっていた僕ははじめて「このままでいいのか」と考えるようになりました。僕が勤めていた会社は人がとても良く、福利厚生もしっかりしている良い会社だったと思います。そんな良い会社でもこんなに辛いなら、転職しても同じことになるんじゃないか・・と考え、そのときはじめてフリーランスという選択肢が頭をよぎりました。最初は完全に「逃げ」のフリーランスです。その時期から通勤時と昼休憩・寝る前を読書の時間に充てることを決め、情報収集に徹しました。かなり地味ですがこの時期は僕の人生において確実に転機と言える期間でした。追い詰められた環境で本を読み漁ったことで、今まで流されまくっていた自分とは変わっていくのを実感しました。ただ当時はフリーランスになることはあくまで理想や将来的な目標であって今の自分にできることではないと思っていました。というのも、[フリーランス]で検索すると「安易にフリーランスになるのは危険」という文句をとにかくたくさん見かけたからです。

そんなときに背中を押してくれた人が2人います。1人が(とにかくいっぱいあるのですが)フリーランスイラストレーターの高田ゲンキさんのブログ、Genki-Wifiでした。僕と同じく美大出身ではない高田ゲンキさんが、同じく会社勤めからフリーランスになり、どうやって成功していったかがかなり詳しく紹介されているのを見て「フリーランスになるための明確なイメージ」を持つことができました。そしてもう1人が高田ゲンキさんの漫画に登場したことで知ったwasabiさんという翻訳家/ライターの方です。(今ではセミナーに参加させていただいたりしています)wasabiさんのブログやTEDトークで話している動画を見て「経験のない分野に飛び込んでも何とかなる」という勇気を貰いました。他にも堀江貴文さん(ホリエモン)の著書「本音で生きる」、アドラー心理学を説いた「嫌われる勇気」、本田直之さんの「脱東京」という本も含めこの時期に触れた色々なものに人生の選択においての価値観をガラッと変えられました。全てが僕の人生を救ってくれた大恩人だと思っています。

そしてモヤモヤした気持ちのままお盆に実家に帰った時にとどめの一撃を食らいました。友達とキャンプに行き「いつでもキャンプに行ける人生送りたい!」と思ってしまったのです。とどめがそれかい!と思うかもしれませんが人生を楽しみたいと思うようになったのが一番大きな理由です。休み明けに東京に戻った僕は最初の出社日に我慢できずに退職の意を伝えていました。具体的な準備を一切しないままだったのは今考えると恐ろしいですが、このぐらいの勢いじゃないと流されやすい自分は会社を辞められなかったと思うので後悔はありません。正直、関西からの採用というお金の掛かることをしてもらったのにたった1年半で辞めるのは申し訳ないと思いましたが、会社の人たちは僕のやりたいことを応援してくれました。よく「フリーランスになるなんて無理」とバカにされて「成功して見返してやる!」という決意を固めるという話を聞くのですが、僕はそういうカッコイイエピソードが一切ありません。大して使えなかった上に1年半で退職する僕のために送別会まで開いてくれた前職の方には感謝しています。そんなこんなで何となくレールに乗り続けていた僕は、その先に自分の望む未来がないレールを降りることにしました。

デザイン学校を経てフリーランスに

退職した僕は「イラストやデザインで食っていくつもりなのに、美術部も美大もデザイン系の職業も一切経験していないのはヤバいんじゃないか」と思い半年間だけグラフィックデザインを学ぶことにしました。退職時は60万円ほどあった貯金の半分以上を使って学費を払った時の「後戻りできない感」は今でも忘れられません。学校には実際にフリーで活躍されているデザイナーの先生がいらっしゃり、かなり勉強になりました。しかし貯金の半分以上というリスクを背負ってまで最優先で行くところではないなと思いました。フリーランスになりたてなのでもっと先にやるべきことがあったと思います。ただフリーになってからはかなり勉強しました。僕は色んなことに積極的にチャレンジしてきた人間ではないので、またナアナアの環境だとフリーランスとして生きていくことは絶対にできないと思っていました。このフリーランスになりたての時期はフリーランスを楽しむというよりは失敗して会社に戻りたくない!という一心でイラスト・デザイン・ビジネスをあらゆる方法で吸収し続けました。どれだけお金がなくても技術書やビジネス書を買いあさり、セミナーや異業種交流会に出かけてインプットしまくりました。

まとめっぽいこと

この長文を読んでいただいた方にはお分かりかと思いますが、僕は基本的に周りに流されるがままに社会に出たダメな人間です。でも今ではいろんな人に救われてフリーランスとしてやっていくことができています。あらゆる面でまだまだ未熟ですが、こんな普通の僕でも自由に人生を楽しむことができています。そして今は同じように不幸になりかけている人を救えればと思ってこのブログをやっています。ただ就活当時の僕みたいなヤツはこんなブログを読まないので、橋本ナオキとして結果を出してから大学に講演に行って「僕はみなさん以下のダメ人間でしたがこんなに立派になりました」って喋りたいです。色んな記事で書いてきましたが「人生は楽しむためのもの」という芯を強く持っています。我慢したり流されることは一切なくていい、自分の人生は全部自分で選択するんだという気持ちでいます。考え方はまた変わるかもしれませんが、この軸だけはブレずに死んでいく予定です。

こんなに長いプロフィールを読んでいただきありがとうございました。このブログを始め僕の活動に興味を持っていただければ幸いです。

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